誕生のきっかけ
「喜ぶ顔が見たいから、僕は作っているんです」
そういって食べる人の顔を思い浮かべながら、
家庭用オーブンで一度にひとつだけ手づくりしています。
高次脳機能障害、脳脊髄液減少症、左脚麻痺を抱えながらのパン・ケーキ作りは
「食べた人にしあわせになって欲しい」
という多以良泉己の強い思いが込められています。
北鎌倉山頂に家を建て、2005年3月16日
多以良 泉己30歳の誕生日に結婚。
それから、わずか5ヶ月後の2005年8月27日。
大宮競輪レース2日目。
ゴール目前で他の選手の落車に巻き込まれ
バンクに頭を激しく叩き付けられて
脳と頸髄を損傷しました。
生死の境目をさまよい「一生寝たきりかも知れません」
そう医師に宣告され、首から下の感覚がない
全身麻痺となりました。
積み木や「1+2=3」などの計算もなかなか出来ず
言葉が出てこない失語もありました。
競輪場からの電話連絡を受けて
急いで救急病院に駆けつけた時には
意識は無く、顔面蒼白の状態でした。
その日から付き添い看護が始まりました。
病室の横に簡易ベットを置かせてもらい
体をさすったり、常に言葉をかけて
一緒にいろんなリハビリをしました。
病室にたくさん植物を飾って、アロマを焚き
ハーブティやハチミツ。病院近くのパン屋さんで
買ってきた無添加のパンを食べてもらいました。
イルカの超音波ヒーリング音楽をかけたり
とにかく思いつくことを全て試しました。
その当時、私は半年間、愛知万博2005
通称「愛地球博」地球市民村の司会をしていました。
多以良 泉己の手のひらに、ペルーパビリオンで買った
手編みの小さなボールを乗せて
上から私が手を握り
手を動かす練習をしていた時のことです。
ぴくっと反応があり、指がかすかに動きました。
「あ!動いた」と、にぎにぎを繰り返しました。
すると、ぴくっ、ぴくっと動き
足にも反応が起きてきました。
それから間もなく、首が据わってきて
車イスにも乗れるようになりました。
それからは歩行器を使ったり
つかまり立ちの練習や歩行訓練を始めました。
9月末に万博のステージを終えて
名古屋から新幹線で病室に戻った日の夜
「ねえ、そこでみてて!」
そういって、一歩、二歩…壁から手を離して
多以良 泉己は歩きました。
その姿に、思わず「すごい、やった!」と涙が出ました。
私が枕元に置いていった白紙のスケッチブックには
仲良く笑うモリゾーとキッコロの絵が描かれていました。
私を喜ばせようと、うまく鉛筆が握れない手で
一生懸命に描いた絵でした。
病室で私たちがしていたことは
家の写真を壁に貼って「絶対に歩いて家に帰る」
と強くイメージすることでした。
その願いは現実となりました。
杖をつきながら家に帰ることが出来たのです。
久しぶりに家に戻ると「おかえりなさい」
と私たちの帰りを待っていてくれたような気がしました。
家でのリハビリが始まりました。
家の中で出来る事は何だろう…?
「パン作りはリハビリになる」
そう聞いて、近くのパン教室を探しました。
小さい頃からケーキ作りが得意だったこと
リハビリで粘土をこねていたことがヒントになりました。
出会ってすぐに初めて私にプレゼントしてくれたのが
手作りのチーズケーキでした。
そのことも浮かんできました。
体に負担がかからないように
サイズに合わせて自ら図面を引きました。
土台だけは大工さんに作ってもらって
それから一週間かけて自分でタイルやペンキを塗り
イタリアの大理石ビアンコカラーラを乗せて
手作りのアイランドキッチンを完成させました。
最初は私のために作ってくれていたケーキでしたが
あまりにおいしいので、友人たちに振る舞っていたら
「家族にも食べさせてあげたい」
「入院中の友人のプレゼントに焼いてほしい」
「一切もらって食べたら涙があふれてきて」
と1つのパンやケーキから輪が広がってゆきました。
そしていつしか「天使のパン」「天使のケーキ」
と呼ばれるようになりました。
パンやケーキを贈る時には、私の手紙も添えています。
「まるで天使からの贈り物のよう」
「やさしい味がする。癒されました…。」
パンやケーキを食べて、涙を流す人や辛かった話を
打ち明けてくれる人が数多くいました。
お手紙やメールをもらい、「お礼が言いたくて」
とわざわざ会いに来てくれる人もいました。
病室のベットで寝ていた時
手のひらから「気」のボールが出るようになりました。
その気がパンやケーキを作る時にも出ていて
パンとケーキに込められている気がします。
「僕は食べた人に
しあわせになってもらいたいです」
北鎌倉 天使のパン・ケーキGateau dangeは
多以良泉己があなたのためだけに焼くパン・ケーキです。
心を込めて焼いたやさしい手作りのパン・ケーキを
ぜひ食べてみてください。